蓮見七月の部屋から考察

部屋から考える社会・世間

ニートのてきとうエッセイ『地元の本屋に本が無い』

このタイトルは正直、誇張だ。

本が無いなら本屋じゃない。

何が置いてあるのか?

漫画やライトノベルだ。このジャンルも悪くない。作家の頑張りの結果だ。

業界全体の頑張りの成果かもしれない。

 

しかし、文学が少なすぎた。

特に日本で純文学と言われるもの。それから海外文学もない。

谷崎潤一郎の作品が『痴人の愛』しか置いてない。

ヘミングウェイなんて一冊も売っていなかった。

 

現代ミステリも良い。

ドラマの原作になった作品も良い。

しかし、名著が置いていない。

芥川賞のスペースも見当たらなかった。少々の直木賞受賞作品スペースがあるだけだった。

 

さらに言うと、僕の地元からは海外と言うものが消えたのかもしれない。

皆、世界は日本だけで構成されていると思っているのかもしれない。

それならあれだけ何もないのも頷ける。

 

なるほど確かに、何を置くか。その決定権は店側にある。

しかし、あの店だけ行くようなことになれば必然的に視野が狭くなる。

 

ライトノベルを読む層が少し難しそうな作品も読んでみよう。そう思う機会が減ってしまう。

本屋での運命の出会い、雷の一撃が起きなくなってしまう。

かつてどんな作家がいて、どんな作品を生み出したのか。知る機会が消えてしまう。

 

海外作品も同様で、どこの国の人の作品だろう?

そういう興味を引き起こすことができなくなる。

本屋に行くだけで脳が刺激されるというような素敵な体験は地元の本屋から消え去った。

 

このエッセイを読んでいる人は、

「いやいや、無いなら検索すればいい」

と、思うかもしれない。

 

しかし、ライトノベルや漫画ばかりを読む人が、検索ワードに

ゲーテ 若きウェルテルの悩み」

と入力するだろうか?

 

僕はその本とブックオフで偶然に出会った。

牧歌的でありながら繊細な心情が鮮やかに描かれていた。

 

僕の地元の本屋では一目惚れや片思いという形から遠く遠くに行ってしまっているのではないか?

目当ての人にアタリを付ける婚活アプリのようになってしまっていないか?

他の本屋がそうなっていないことを祈るばかりだ。

 

逆に様々な本を置けば、視野は広がり恋の機会が増えるはずだ。

普段、ライトノベルを読んでいるクラスメイトが突然、太宰の『斜陽』から引用して

「人間は恋と革命のために生まれてきたのかもしれない」

ぽつりとそう呟いたら?

考えただけで僕はときめく。

 

漫画を読む友人が

「この漫画は誰それと言う大作家の作品から影響を受けたのでは?」

と、解釈しようとしたら?

それだけで僕は嬉しい。

 

人間としての厚みが出ると思う。

世界に素敵な人が増える。

人が何を考えているか読み取ろうとする人間が増えるだろう。

ライトノベルや漫画を読む人はぜひ文学を。

文学を読む人間はライトノベルや漫画を、それぞれ読むともっと良くなるかもしれない。

 

ところで、本の配置を決める本屋は儲けを優先していたのだろうか?

行く度に文房具やライトノベル、漫画の棚が増えて文学は隅に押しやられる。

たしかにあの本屋には『論語と算盤』は置いてなかった。

あの本屋の商売を良い、善い商売だとは思えない。

 

「見たいものは置いてあります。私の考えはありませんが」

というような売り方。

凡庸な政治家みたいな言い草だ。

つまらないよ。

 

八方美人の小説がつまらないのと同じだ。

共感できる作品です!共感できました!

それだけ。

 

確かに共感は心地よい。

自分と同じ考え方の人間が居ると安心するからだ。

でも、成長が無い。

脳の形はそのままで拡張しない。

 

批判的な事を書いたかもしれないが、地元の本屋が悪いわけじゃない。

需要の高いものが店に並ぶ。それで売れる。欲しいと思った人が買える。

これが資本主義だ。

それで満点かもしれない。

 

このエッセイを読んでくれた人の地元に良い本屋はあるだろうか?

あるなら積極的に利用するべきだ。

資本主義に我々が征服される前に。

 

善い本屋があるのは幸運だ。

皆の地元に善い本屋があることを祈って今回のエッセイを終わる。