ニートのてきとうエッセイ『大縄跳び』
連帯。
結び連ねること。
連帯責任。
連帯で負担する責任。
広辞苑を引くとそうある。
つまり、結び連ねて負担する責任となる。
小学校の時から大嫌いな言葉だった。
正しいことをした人間が悪いことをした人間と共に裁かれる。
昔、先生があいさつをした。
体育の授業だ。
返事が小さかったらしい。
「もう一度」
先生はそう言ったが、確かにあいさつをしていた人間もいた。
なぜしっかりやろうとした人が責任を負担するのか。
理不尽である。
北朝鮮も似たようなことをしている。
密告された人物に加えて家族もつれていかれるそうだ。
まさに連帯責任。
キム一族と先生。
独裁者二人が好きだというのだから、統治に最も向いた考え方なのだ。
誰がどれくらい悪いことをしたのか、いや、悪いことをしたかどうかさえどうでもいい。
恐怖による統治が完成すればそれでいい。
これが大縄跳びと同じなんだ。
集団で取り組み、飛べた飛べなかったを競う。
飛んだ人を称えるのではない。飛べなかった人を生徒同士で探し出すのだ。
たとえ100回飛べても、101回目で失敗したやつを探し出すのだ。
そんなことをしても記録に変化はない。
統治者たる先生は座っているだけ。
誰がミスをしたのか。誰がミスをした人間を探しているのか。それは正しい事なのか。
それにさえ気が付かない。気が付いてもわざと忘れる。
人と人が監視し合う社会。
カメラのない相互監視社会。
大縄跳びをやらされて育ったんだ。
そういう社会になるに決まってる。
北朝鮮のキム一族だってきっと大縄跳びで育ったはずだ。
ヒットラーもそうかもしれないし、スターリンもきっとやらされて育ったはずだ。
そういう訳で、大繩、先生、独裁、つまりは連帯責任。
大嫌いだ。
本当に、支配されちゃあいけないんだ。